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-あの震災の日から、一週間が過ぎた。
まずは、今回の大震災により、家屋・財産のみならず、大切な家族までも失われた方々に対し、お見舞いの意を。そして、亡くなられた方々に対し、哀悼の念を。
宮城県大和町在住の筆者は、あの瞬間、自宅に居た。筆者の連れも、その日は仕事が休みだった事から自宅におり、不幸中の幸いで、離れ離れにならずに済んだ。その後、最低限の親類縁者の安否も何とか確認でき、現在に至っている。
ただ、物資不足や、物流経路寸断の影響で、多分に漏れず、生活に必要な食料や、ガソリンの調達には困窮している。緊急営業中のスーパーは、毎日、長蛇の列。ガソリンスタンドはそもそも全ての油種を入荷できず、在庫ある分を放出した後は、どこも閉店状態。
こうなるともう、じっと我慢できる人は、ひたすら我慢し続けるしかない。下手に動けば、残り少ないガソリンや、体力・食料を消費し、ますます困窮するだけだ。
しかし、近郊に住む親や兄弟の団地では、未だ水道やガスが復旧していない。少しずつ復旧はしてきているようだが、最低限のライフラインである、電気・ガス・水道が揃わなければ、落ち着いた生活は難しい。しかし、仙台市及びその近郊の団地では、ガスの復旧は、当面難しいと聞いている。
不幸中の幸いにして、筆者の住む大和町の団地では、早期に(それでも3~4日掛かったが)電気・ガス・水道が全て復旧した。大変有り難かった。インターネットも、震災から6日目にようやく復旧し、こうしてブログのレポートを更新するに至っている。
電気が復旧するまでは、ラジオで情報を得続けた。
幸いにして、普段からユアスタに持ち込み、佐々木聡氏の試合実況中継(ラジオ3、FMいずみ)を聞くために使っていた小型のラジオが、大いに役立った。元々、震災対応品であった事から、100Vからの電源供給が出来なくなっても、小さなハンドルを廻せば自己発電できるタイプだった。しかしそれ以前に、電池として利用していた、SANYO の ENELOOP をフル充電しておいたおかげで(本来なら、翌日はホーム開幕・名古屋戦だったので、その準備をしておいた)、電気が復旧するまでの三日三晩、ほとんど途切れる事なく、ラジオを聞き続ける事が出来たのだった。
だが、そのラジオから聞こえてくるのは、沿岸部の大津波による、大惨事の状況。そして、物流経路の寸断による、生活物資の枯渇。これは大変な事になったと、時間が経つにつれ、その事態の大きさをひしひしと感じ始めていた。
三日三晩、電気の無い生活に耐え、そして複電。いの一番でTVの電源を付け、そして目に飛び込んできたのは、この目を疑いたくなるような、地獄絵図の沿岸部の光景。そして、福島第一原発の危機的状況だった。
この三日三晩、まず脳裏に浮かんだのは、子供の頃に実家にて被災した、あの宮城県沖地震。そして、新潟中越地震や、神戸の大震災だった。
だが、今回の地震の規模が、世界でも類を見ない、複数の海底プレートの断層が一気に破断して発生した、マグニチュード9.0という記録的なものだった事を知ったとき、宮城県沖や、中越や、そして神戸震災の比ではない事を認識した。
「いつか、また大地震はやってくる」
宮城県沖地震の被災経験者として、その認識は捨てないでいたつもりだった。だが、まさか。本当にまさか、あのときの数倍以上の規模の大震災になるなど、夢にも思っていなかった。
実家の父は、昔から、何でも備蓄する癖があった。日常生活で不足するものがあると、「10個も買っておけ!」と、よく母を怒鳴り散らしていた。子供心に、嫌な父だと思った事もあった。
だが、今を思えば、前述したラジオは、実家の父が「何かあったら、これを使え」と、10年以上前に、筆者にくれたものだった。当然、実家にも類似品のラジオがある。
それに、実家は未だに、常に食材を多めに保有している。このため、業務用の冷凍庫を2台も倉庫に置いているくらいだ。電気が復旧するまでは解凍してしまう心配もあったが、季節柄、何とか持ち堪えたようだ。
ところで、実家の裏庭には、屋根の雨といを伝って流れ落ちてくる雨水を蓄える、貯水タンクがある。実家も当然、断水の憂き目には遭っているのだが、トイレや洗い物など、飲料水として使わなければ、充分な量(確か100Lもの)だった。
また、飲み水としては、近所のスーパーにて最近よく見かける、麦飯石などによる浄活水も利用していた。少し多めに専用ペットボトルを用意し、数日おきに汲みに行っていた。飲み水としては、その汲み置きが何本かあったため、大変助かっていたと言う。
更には、筆者の実家は、建屋が古いため、独自のプロパンガス設備を利用していた。都市ガスではない。このため、震災の振動を受けて自動停止していたマイコンメーターの開栓スイッチを押したところ、ガスがすぐに使えるようになった。
つまり、筆者の実家は、震災直後の状況下の中、水・ガス・食料の備蓄、そしてすぐ使えるラジオと、電気を除き、震災に遭っても、ある程度生活に耐えられるだけの装備を擁していたのだ。
宮城県沖地震を、当時、一家の主として、筆者を始めとする三兄弟と母親を守ってくれた父。今から振り返れば、あの時の経験が、父に、あれだけの用意周到な準備をさせるに至っていたのだろう。それが、今回、間違いなく役に立っている。
なお、震災が発生した時刻が昼間であった事から、家の中の危険部位から離れる余裕もあった事が幸いした。実家の親は、2階の寝室で寝ている。被災当日、急いで実家に行き、その2階の寝室を見てみた。案の定、タンスやら本棚やらの家具が、普段、布団をひいている畳の上に、覆い被さっていた。そこは、未だに手は付けられていない。
もし、震災の発生時刻が深夜だったとしたら、親は、タンスや本棚の下敷きになっていた事だろう。それを思うと、まさに九死に一生を得た気持ちである。
振り返って、筆者の自宅。
アパート住まいなのだが、実はオーナーは父であり、実質的に、筆者は当該物件の後継者である。ゆくゆくは、筆者が物件を受け継ぐ予定だ。だから、震災のとき、室内の本棚を必死に押さえつけながら、「頼む、耐えてくれ」と懇願していた。
父が、私の代に残してくれた財産なのだ。絶対に守らなければならない。普段から、火事には注意している。だが、地震だけはどうしようもない。運を天に委ねるような気持ちだった。
余震の心配はあったが、大きな揺れが収まったあと、玄関を飛び出し、アパートを全体的に見て廻った。
何ともなかった。
このアパートを建築するとき、父は、「地震に対し出来るだけ強度が持てるよう、入れられる梁(はり)や補強は、可能な限り入れてくれ」と業者に依頼していたそうだ。その時の、建築中の写真も残っている。
そしてアパートは、外観、そして他の住人の室内も含め、事無きを得ていた。一部の室内で、僅かにひびのようなものが確認されているが、地震の規模を考えれば、よくぞ耐えきったほうだと思う。
未曾有の大惨事の中、筆者自身の家と、そして実家、近郊の兄弟など、最低限の親類縁者の安否の確認が取れ、一定の安心感を得ている。
が、ひとたび、県内周辺や東北全体、そして北関東まで拡がった、大惨事の実情に目を向ければ、とても直視できない、悲惨な事実が待っていた。
世界中の大震災や大津波のニュースは、これまでも何度か聞いてきていたが、よもやそれと同クラスの被災を、自ら被る事になるとは、夢にも思わなかった。
だが、筆者はまだ、全然に幸せなほうだ。震災から一週間後には、ライフラインが全て復旧し、インターネットも携帯電話も復旧(固定電話は未だ復旧せず)。無理な遠出さえしなければ、最低限の食料調達や移動は可能なのだ。被災で、家屋も財産も、そして家族までをも奪われ、そして失ったものを探しに行く事も適わず、避難所で極寒の生活を強いられている人々の心情を思えば、スーパーに早朝から並んで買い物をしたり、ガソリンが不自由で外出を極力控える事など、造作でもない。
そして、少なからず、被災して避難所暮らしを強いられている人たちの中にも、ベガルタのサポーターは居る事だろう。
本来なら、3月12日土曜日は、今季のホーム開幕戦のはずだった。当然、それを心待ちにして、学校や職場などにて、日常の生活を消化し、「明日は今季初のユアスタへ」を心の支えにして、愉しみでいっぱいだった筈だ。
それを、今回の大震災が、無惨にも、一瞬で流し去って行った。
自然の力には、逆らえない。どんなに文明が発達しようとも、長い地球の歴史の中で、ほぼ定期的にやってくる、これらの自然現象だけは、止めようがないのだ。数百年の昔から、規模の大小はあれど、日本人は同じような危機を何度も迎えてきた。
そして、その「危機を迎えた日」から、被災した人々の「生き残るための戦いの日々」が始まっている。
敵は、「己自身」だ。この未曾有の大震災から、辛くも没命の難を逃れ、生き残った人々、それぞれの心の中に、「敵」が潜んでいる。
避難所で辛くも生き延びている人々は、失われた家族の分をも、生き抜かなければならない。ましてや、近隣のどこかの別な避難所に、家族や親類も避難しているかもしれないのであれば、再会できる日を信じ続け、必死に生き抜かなければならない。自分が生き抜かなければ、再会を信じて、やはり必死に生き抜こうと努力している家族や親類の努力が無駄になる。自分に負けてはならない。負ければ、自分の存命を信じて待っている、家族や親類、友人に、申し訳が立たない。
そしてこの事は、内陸部で大津波の難を逃れ、こうしてインターネットが出来るような環境下にある私たちにも言える事なのだ。
被害の小さい地域から、順に、電気・ガス・水道などのライフラインが復旧し、買い物やガソリンなどの物流の問題も、少しずつ改善していく事だろう。しかし、自分の住んでいる地域の生活環境だけが戻ったからと言って、沿岸地域の被災者が置かれている状況を思えば、手放しでは喜べないのである。
聞けば、ガソリンや食料を巡り、被災地域近辺では、略奪や盗難事件なども発生していると聞く。
TVのニュースなどでは、「日本人は、こんな大惨事の中でも、整然と列を成し、モラルを守って、お互いを支え合って生きている」と、海外メディアから賞賛されている事なども届いてくる。
しかし、現実は、筆者の住む団地近辺でさえ、ガソリンや灯油などの盗難事件が発生し、地域災害放送などで、戸締まり注意の喚起がなされているくらいなのだ。また、長蛇の列となっているガソリンスタンドでは、何時間も並んでなおガソリンが手に入らなかった人が、店員を殴る事件を起こしたり、また、列への割り込みなどのトラブルも相次いでいる。
これだけの大惨事なのだ。一週間やそこらで、元通りの生活環境が取り戻せるはずなどある訳ないのだ。例え、地震や津波の影響を大きく受けなかった地域であっても、物流というライフラインが絶たれている現状では、ある意味、被災規模の大きい沿岸地域と、何ら変わりはないのだ。ただ、最低限の衣食住が確保できているというだけで、意識的には、あくまでも「被災者」である事を忘れてはならない。
被災者であるが故に、当然ながら、出来る我慢はしなければならない。贅沢は敵だ。全てを失った沿岸部の被災者との、被災状況の差はあるとは言え、共に助け合わなければならない事に、微塵の違いもないはずだ。
では、そんな私たちに、何ができるだろうか?
とにかく、全てにおいて、「少しずつ我慢する事」ではないだろうか?
津波の被災を免れた内陸部であっても、被災の影響により、物流が麻痺し、簡単にモノが手に入らない。だがそれは、その人だけの問題ではない。その地域にある、少ない物資を、その地域の皆で、少しずつ分配して利用しなければならないのだ。
そのためには、緊急営業しているスーパーでも、必要最低限のモノだけを買う。ガソリンが手に入るとしても、必要以上を給油しない。ガスが復旧した地域でも、地域備蓄型(集中プロパンなど)であれば、皆が大量に消費すれば、すぐに備蓄が無くなってしまう。水道にしても、余震の影響でいつまた水が濁ったり、断水するかもしれない。電気に至っては、福島の原発の問題により、日々、電力不足の危機に陥っている。例の計画停電の影響は、基本的に東京電力の管内の話ではあるが、東北電力の管内でも、地震の影響を受けた発電所はゼロではない。実際に、女川原発は停止している。東北電力も、場合によっては計画停電を実施するかもしれないと言っているくらいだ。私たちが、少しずつ節電しなければ、東北電力管内でも、いつ大停電が発生するとも限らないのだ。
そして、これらの「少しずつの我慢」をする事によって、それが結果的に、大打撃を受けた沿岸部の被災地を、間接的ではあるが、支援する事になる。私たちが物資を、必要以上に欲しがらなければ、その分が周辺の人たちに、そして被災者に行き渡るはずなのだ。
ましてや、自分だけが良ければという我欲に負け、買い溜めや泥棒に走り、また腹が立ったからと言って店員を殴ったりなど、言語道断だ。
そうなのだ。あくまでも、敵は「己自身」なのだ。
出来る我慢をし、今この苦しい状況を耐え抜けば、少しずつではあるが、物流は復活し、元の生活が戻って来るはずだ。今すぐ普段通りの生活を要求するなど、贅沢千万ではないのか。沿岸部の被災者は、本当に全てを失い、家族の安否の確認すら取れず、泣きながら避難生活を送っているのだ。
せめて、私たちは、「出来る我慢」はするべきである。
繰り返し言う。敵は、己自身だ。これは、己との戦いである。筆者も、今、その戦いに挑んでいるつもりでいる。極力、我慢出来るところは我慢して、今を凌いでいる。
その戦いを凌ぎながら、少しだけ気持ちに余裕が出て来たタイミングで、ネット上で、サッカー界の状況なども確認した。
案の定、Jリーグは中止となっていた。最低限、3月いっぱい。だが、4月からの開催のメドが立った上での決定でもないだろう。個人的には、ゴールデンウィーク(決して、黄金週間として、余暇を楽しむ余裕は無いかもしれないが)の手前、つまり、4月いっぱいまでは、開催は難しいのではないかと思っている。
そして、世界からは「日本ガンバレ」のエールが、たくさん届いていた。日本人プレーヤーが在籍する欧州のクラブはもとより、日本に直接の縁の無いクラブまでもが。そして、国単位・クラブ単位で、多くの支援を表明して頂いており、大変ありがたいと感じている次第である。
だが、一番に心に染み入ったのは、サッカー専門紙「エルゴラッソ」の3月16日臨時号の内容であった。
上記のURLより、エルゴラッソ紙の特別PDF配布版を読む事が出来る。PDFを読める環境にある方は、是非、読んで頂きたい。
同紙の仙台担当ライターである、板垣晴朗氏が、自身が仙台駅構内で被災しながらも、仙台の担当記者として、同紙の表紙に、大きなユアスタの写真と共に、コメントを掲載されていた。
そのコメントの内容に、いたく励まされた気がした。
「フットボールを通じ、我々は、共にあると。ひとりでは、ないのだと。」
この一文を読み、少しだけ、涙腺が緩んで来たのを覚えている。が、次のページへ読み進み、読み進み、読み進む度に、更に涙腺のリミッターが外れていくのを実感した。
被災したJリーグのチームは、何も仙台だけではない。茨城県も相応の被害を受けており、水戸や鹿島のスタジアムも、大きな打撃を受けたと聞く。
ただ、やはり仙台は、今回の震災の「初震」の震源地(正確には三陸沖)でもあり、被害者数も群を抜いている宮城県をホームタウンとするクラブである事から、前述のエルゴラッソ紙では、今回の震災の被害を大きく被ったクラブの代表格として扱って頂いた事だろう。悪い意味で、全国のJリーグ関係者の、一番の注目の的となってしまった訳である。(水戸や鹿島にも、是非、目を向けて頂きたい。彼らのクラブも被災しているのだ)
そうなってくると、Jリーグ全体が再び元気を取り戻すためには、まず、最大規模の被災地・宮城県をホームタウンとする、私たちベガルタ仙台のサポーターが、全国のサッカー関係者へ向け、「私たちは、絶対にもう一度立ち上がる。だから、心配しないでくれ」と、強い意志で、この困難を乗り越える姿勢を見せなければならない。
Jリーグを始め、全国のサッカー関係者は、私たち仙台・宮城の「クラブ・サポーターとしての生還」を望んでいる。
その期待・声に、私たちは、必死に応えなければならない。
まずは、目の前の「小さな我慢」から。
再びJリーグが再開したとき、いったいどこのスタジアムで「ホーム開幕を迎える」事になるかは、まだ判らない。ユアテックスタジアム仙台の被災状況の程度も判らない現状、私たちの"聖地"で、無事、ホーム開幕を迎えるという訳には行かないかもしれない。可能な限り、ホーム開幕戦はユアスタで実施して欲しいと思うが、設備的に危険が残る場合は、開催地を移される可能性はあるだろう。
だが、贅沢は言っていられない。無事にJリーグの再開までこぎ着けられるのなら、どこの代替地を割り当てられたとしても、それは仕方の無い事だ。
それらに対する「我慢」も含め、いつの日か、あのカクテル光線の輝きの眩しい、ユアテックスタジアム仙台に、私たちが戻れる日を願って-。
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